「悟った人」と「想念」との関係について
この記事は2018.9.15、13:55に更新しました。
更新内容:記事の末尾の一文を加筆修正しました。
「賢者」と言おうと「覚者」と言おうと「仏陀(ぶっだ)」と言おうと、名前なんてどうでもいいんだけど、
すなわち、
悟った人というものは、もはや想念そのものには興味がない。
わけであります。
その想念が、どんなに崇高そうに見えるものであってもね。
だから「肉体/精神の次元」という想念の世界から解放されたわけでしょ?
そうして「聖なる次元」ついには「非二元の次元」へと移行していくことが実現できたわけでしょ?・・・
つまり、
想念そのものには興味がないから、想念を完全に手放すことができた
わけですよ。
ということはだよ、
悟った人というのは、想念との戯(たわむ)れに飽きた人なんだよ。
「想念と戯れるゲーム」からは卒業しているの。
だから悟った人というのは、自身の想念というものに興味がない。
当然ながら、他人の想念そのものにも、それ単体では興味がない。
もっと言うなら、肉体/精神としての自分というものにもあまり興味がない。
ましてや「自己意識の欠片なく、想念に乗っ取られた自覚もないゾンビのような人たち」には、さらさら興味がない。
もちろん慈悲や愛や必要性などによって、「他人の想念」に関わっていく場合はあるんだけどね・・・
この場合は、慈悲や愛や必要性等によって関わっているんだよ。
決して他人の想念そのものに興味があって、好きで他人の想念に関わっているわけでも、巻き込まれているわけでもないんだよ・・・
そこのところを勘違いしてしまうと、おかしなことになっちゃうよ。
つまり自分のものであれ他人のものであれ、能書きというものにも興味がないということだよね。
だから当然のことながら、私は自分の直接伝達能力などを自慢したことは一度もない。
その必要性に応じて、事実としてのデータを淡々と述べているだけのことなのである。
他人が自分の部屋(心)に集めた自慢のコレクション(想念)を披露し始めた時には、「へぇ~」と眺めているだけのことなのである。
私にとってかけがえのない大切なものとは、あなたそのものだけである。
あなたの理想や思想や信念などといったあなたが身につけている、すり替え可能な装飾品(想念)なんかのことはどうでもいい。
もっと理解を深めたい・・・
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